なぜ私たちは『優しさ』に疲れるのか

ふと感じた違和感から、少しずつズレていく自分の中の何か。。。

「優しくしたのに、苦しい」

「誰かの為に動いているのに、心がすり減っていく」

そんな瞬間は、誰にでもある。

けれど、私はココ最近、その頻度と耐える感覚が明らかに増えたり短くなってきている。

自分でも気付かないバーンアウトもあったのだろう。

最近の慢性疲労症候群は、専ら心に表れてくる。

鬱になってしまいそうだと思う事もある。

今までの私は、そんな『ワタシ』を見たことがなかった。

だからとてもショックで不安で、何が起こっているのか分からなかった。

今でも分からない事の方が多い程、そんな瞬間が増えたのだ。

最近気付いてきた。

きっと、私の心のリミッターが『本当の私』に近付いてきたのかもしれない。

優しさの中にある”期待”や”恐れ”は、無意識の「理解して欲しい」が潜んでいるのだと思う。

本当は私は、

「こうして欲しいんだ。」

そう言う想いが無意識に行動にも表れてくるのだろう。

「気遣いが出来る」「優しい」

そんな言葉に付随される行動は、

もしかしたらその人の心の内側を反映しているのだと思う。

優しさは、

気付けば自分の内側を表現し、

そして次第に”期待”や”恐れ”と交差し始める感情を生み出し始める。

本当の優しさは、見返りを求めない静けさの中にあるのに。。。

本当の優しさは、その場だけの行動や言動ではないのに。。。

本当に優しい人は、きっと厳しいかもしれない。

本当に優しい人は、きっと言葉が少ないのかもしれない。

何を行動したら、言葉にしたら、

この人の数年後には光が灯っているのだろうか。。。

そう考えて言動行動を選ぶのだろう。

”優しくしなきゃ”と、優しい人間でいることは、私の中である種の美学だったのかもしれない。

そんな美学はもう通用しなくなった時期に入ったのだと思った。

私は、自分をもっと広く高い視座で見れる人間になりたいと思った。

違う。

優しさじゃない。私が求めているのは。。。

”思いやり”だ。

美しくて芯のある、透き通る強さが欲しい。

時に鋭すぎてしまうかもしれない。

それでも私はそんなクリスタルが欲しいと思ったのだ。

そうか。。。

優しさとは、思いやりとは、

「行動」ではなく「在り方」だ。

自分を大切にするとは、

「在り方」を考え整えていく事だ。

だから初めて人にも優しくなれるのか。。。

今日、少し優しさに疲れたなら、

自分の心にも「ありがとう」と言ってあげよう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です